2007年12月23日 (日)

ベエルシバBeersheba

車は右に折れてベエルシバに向かう。暑い、恐ろしく暑い。エンジンが焼けるので冷房は断続的にしか入れられない。

「ベドウィンだ、本物のベドウィンだ。見ろ、あれ、あれ」

サムの興奮した声に、少々驚いて私もその方を見た。

聖書の旅(山本七平)

ベングリオン大学が砂漠の真ん中(ベエルシバ)に築かれた目的は、国政によってイスラエル全土の60%にあたるこの砂漠を開発するためである。

ベングリオン大学のキーワードは、という問いに対する答えは「ダビッド・ベングリオンのビジョンに導かれ、そのビジョンの実現のために」となろう。

荒野に挑む(糸川英夫)

「日本文化人代表団」として「山本七平、小室直樹、糸川英夫」の3名が昭和60年台にイスラエルを訪問した。

地図はベエルシバにあるベングリオン大学Ben-Gurion Universityのユニークな形の図書館を示す。大学のシンボルになっているとのこと。

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アブラハムの井戸 Abraham's Well

That day Isaac's servants came and told him about the well they had dug. They said, "We've found water!" He called it Shibah, and to this day the name of the town has been Beersheba. Genesis 27:32-33
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テル・ガッゼー Tel Gezer

(サムソンが)怪力を失って捕らわれたガザは、今のガザと同じ位置ではなく、少し離れた離れた所にあるテル・ガッゼーがそれである。そこに行こうと言ったが、「ガザでは車から出ないという約束だ」とサムは言う。

聖書の旅(山本七平)

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アシケロンAshkelon

鉄格子の間からのぞき込んでも、うすぐらい石造の小屋の中の井戸野縁が見えただけで、それ以上は何も見えない。井戸は深い。もちろん水面は見えない。だがもし見えれば、その水面にサムの顔を映してみたかった。

聖書の旅(山本七平)

He went down to Ashkelon, struck down thirty of their men, stripped them of their belongings and gave their clothes to those who had explained the riddle.

アシケロンの遺跡は現在国立公園the Ashkelon National Parkとなっている。

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2007年12月22日 (土)

テル・カシレTel Qasile

いずれにせよその規模はきわめて小さく、この貧弱な”村”がなぜイスラエルの脅威であったか少々不思議なほどである。

聖書の旅(山本七平)

So all Israel went down to the Philistines to have their plowshares, mattocks, axes and sickles sharpened.

地図はテルアビブ市内のテル・カシレTel Qasileとその横に立つエレツ・イスラエル博物館The Eretz Israel Museum 。

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キング デイビッド ホテル King David Jerusalem Hotel

気をきかしてユダヤ人のドアボーイが来て車のドアに手をかけた。その瞬間、その温厚な老運転手の人相は一変し、ものすごい目で相手を睨みつけると、大声で怒鳴った。「オレの車にさわるな!ジュウ」。

聖書の旅(山本七平)

イスラエルで最も有名かつ高級な五つ星ホテル。1泊260-500USDから?。

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ヤコブの井戸 Jacob's Well

僧院の前には自動小銃をもったイスラエル兵が二人いる。--扉はもうしまっていたが、年老いた司祭がわざわざ開けに来てくれた。

聖書の旅(山本七平)

You are a Jew and I am a Samaritan woman. How can you ask me for a drink?

地図はヤコブの井戸の上に立つギリシャ正教の僧院。

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2007年12月21日 (金)

ゲリジム山 Mt.Gerizim

ゲリジムは前述のようにパレスチナには珍しい青々とした山だが、エバルはまさに石灰岩の岩塊であり、

聖書の旅(山本七平)

Our fathers worshiped on this mountain, but you Jews claim that the place where we must worship is in Jerusalem.

地図はゲリジム山頂を示す。写真で見る限りゲリジム山は低い禿山といった感じで礼拝の対象になるような感じではないが、、。

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2007年12月20日 (木)

バルダビル湖(Bardawil Lagoon)

この湖は細い堤防のような砂州で地中海から区切られている湖であり、この堤防にあたる部分が、北ルート説の出エジプトの道なのである。

聖書の旅(山本七平)

and the Israelites went through the sea on dry ground, with a wall of water on their right and on their left.

地図はバルビタル湖と地中海を示す。現在砂州は人工的に2箇所で分断されている。

この細い道にはわずかながら草があるので遊牧民はわざわざこのルートを取るとのことであるが、グーグルマップではそこまで確認できない。少し苦しい説明であるような気がするが、、。

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2007年12月18日 (火)

ラス・サフサファ(Ras-Safsaf)

「あれがシナイ山ですか」後ろの老婦人から質問が来る。「ええ、まあそう言ってもよいでしょう」私はあやふやな返事をする。ーーーただあれは東西にのびる細長い峰の東端で、西端がジェベル・ムーサ、こちらをシナイ山とするのが普通のようです。

聖書の旅(山本七平)

地図はラス・サフサファの山頂を示す。

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ジュベル・ムーサ, Jabel Musa

翌朝、早朝から登山にかかる。距離は長いが一番楽な、ジュベル・カタリナとジュベル・ムーサの谷間から登っていく。谷は一面に霧でうまり、その中にシナイの岩山が黒褐色に浮かび出る。それは、思わず足をとめ、溜息が出るほど美しい。

聖書の旅(山本七平)

「危ないです。雪になったら凍死します。しかもこの風では、あの山頂に立っている事ができません。四月末か五月はじめにもう一度お出で下さい。その時期なら比較的安全に登れますから、、、」そう言われて私は、黙って岩盤にすわりつづけた。

旧約の風景(山本七平)

地図はジュベル・ムーサの山頂。

the whole mountain trembled violently, and the sound of the trumpet grew louder and louder.

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シナイ空港、Santa Katarina-Mount Sinai Airport

「寒い、恐ろしく寒い」。着陸した機を出た瞬間の印象はそれにつきる。冬の南シナイの印象は、それしかない。

聖書の旅(山本七平)

地図はシナイ空港(Santa Katarina-Mount Sinai Airport)を示す。滑走路の一部分を消してあるのは軍事的な配慮からか?

国際的な観光地、巡礼地である割にはさびしい空港。

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2007年12月16日 (日)

カデシ・バルネア Kadesh-barnea

「ヘエー、これが「シナイの真珠」か。うす汚い真珠だなあ」。傍らの泥づくりのアラブ人の農家を見ながら、私は思わず口走った。

聖書の旅(山本七平)

「カデシ・バルネアに行けないだろうか」「むつかしいですなあ、なにしろシナイの最も重要な軍事基地ですから、しかし申請はしてみましょう」。

旧約の風景(山本七平)

地図はこの周囲にある最大の泉のアイン・エル・クデーラト(Ayn al Qudayrat)を示す。カデシ・バルネア(Kadesh-barnea)とはここを指すとされる。グーグルマップでの検索にかなり手間取る。エル・クセイマから約6kmとのことなのでこの位置でいいと思うが、、、。toshi

Kadesh-barnea is known as the place where The Israelites stayed for 40 years during the Exodus from Egypt.

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マギリン山 Mount Maquilling

 何気なく新聞を見ていて、思わず「おや ! 」と声を出した。というのは記事に、三井物産のマニラ支店長の若王子氏が誘拐された場所がカンルバン、閉じ込められていた場所はマギリン山でーーー終戦後、一年半近く私が収容されていたのがカルンバンの収容所、そして朝夕眺めていたのがマギリン山であった。

「『常識』の落とし穴」(山本七平)

地形図はカルンバンやや南東のマギリン山 Mount Maquilling。

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カランバン収容所 Canlubang

闇の中で人が立ち上がる気配があった。その人は私に近づき、少し前でとまり、やや切り口上で言った。「いま収容された方ですか」「ハイ」私は答えた。

一下級将校の見た帝国陸軍(山本七平)

カランバン収容所は現在ゴルフ場や日系企業の工場となっているとのこと。toshi

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サンホセ盆地 San Jose

「少尉殿、・・・救援を、救援を。・・・隊長殿が言われました。山本のところへ行ってこい、あいつなら・・・きっと助けに来てくれる、あいつだけはきっと来てくれると・・・」

一下級将校の見た帝国陸軍(山本七平)

地図はサンホセ盆地とパラナン川。toshi

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バガオ Baggao

「E曹長、二門とも分解せエ、一門はひ力搬送の準備、一門は川にぶち込め!ワシが責任をもつ」。彼は返事をしなかった。しかし闇夜にもわかるはっきりした態度で、模範的な不動の姿勢をとると、全身に緊張をみなぎらせ、黙ったまま私に敬礼した。

一下級将校の見た帝国陸軍(山本七平)

地図は砲を捨てたバガオとパラナン川周辺。toshi

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本部観測所

私は樹上観測所にのぼった。--何度も見た風景、脳裡に焼きついている風景であった。--近くへ視線を移せば、カガヤン川にそって5号道路が北上し、ドゴの三叉路から支道が出、それが、水田の中の一条の帯のように目の前を横に過ぎ、ゴンガサへと通じている。

一下級将校の見た帝国陸軍(山本七平)

地図は本部観測所があった地点とその周辺。toshi

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2007年12月15日 (土)

パインズホテル(バギオ) The Pines Hotel (Baguio)

バギオは熱帯のフィリピンでは稀有の清涼な保養地であった。山本(七平)は見習士官であったがそれでも将校とあってバギオ一の、当時東洋で最高級のといわれたパインズ・ホテルに宿を取った。

怒りを抑えしもの(稲垣武)

パインズ・ホテルは取り壊されて現在SM mart baguioという巨大スーパーマーケットになっている。

古いパインズ・ホテルの写真を見るとなるほど立派。戦前の日本でこれに匹敵するホテルは何件あっただろうか。

下の地図はSM mart baguio(旧パインズホテル)の位置を示す。toshi

The Pines Hotel at the top of Session Road, a remnant of Baguio City’s hill station legacy, was replaced by gargantuan SM malls.

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マニラ港 Manila Bay

十五日マニラ港に入ったが、空襲もなく人員・器材の揚陸も無事に済んだ。ところが船から桟橋に降りたはいいが、どこからも何の指示もない。熱帯の烈日にさらされているうちに、兵士の一人が熱射病で倒れた。

怒りをおさえし者(稲垣武)

これは昭和19年6月の記述。この後マニラはワルシャワとならんで悲惨な市街戦が始まる。地図はマニラ港。toshi

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2007年12月14日 (金)

七星岩

船はいよいよ、魔のバーシー海峡に入るところであった。というのは、台湾の突端から海上へとのびている岩礁群、有名な七星岩列の最先端が右手に見えたからである。--粕谷軍曹も同じ思いらしく「あの岩までおよげますかなあ」と言った。「だめだろうな。あの岩礁群はサメの巣だそうだ」私は答えた。会話は途切れ、二人は黙って岩礁を眺めた。

一下級将校の見た帝国陸軍(山本七平)より

七星岩はかつての大日本帝国の最南端。真水はないようなので運よくたどり着いても果たして何日生き延びる事ができるだろうか?toshi

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2007年12月 9日 (日)

正蓮寺

Fh000014 そこから坂道になり、それを下ると正蓮寺というお寺があって、いつもピタリと門がしまっているが、生垣のあいだから墓場がすけて見える。この辺りには殆ど街灯がないが、たまに一本ぽつんとたっていると、それが照らし出す光景は、暗闇よりもっと不気味だった。

昭和東京物語1(山本七平)

三軒茶屋周囲が激しく変化している中で唯一当時の雰囲気を伝えている貴重な存在。ただし寺の敷地は相当に縮小されたものと思われる。

撮影場所:東京都世田谷区三軒茶屋

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蛇崩川

Photo 正蓮寺の先は水田で、人家は一軒もなく、しばらく歩くと蛇崩れ川という小川があって木の橋がかかっている。子供の私にはこれが相当大きな川に見えた。水は決してきれいではなかったが、メダカや泥鰌がおり、水すましが、すいすいと水面をすべっている。夏には悪童達がここで、メダカや泥鰌を追いまわした。

昭和東京物語1(山本七平)

水田?人家が一軒もない?木の橋?めだか?写真は蛇崩川のなれの果て。昔を知らない人が見ればただのきれいな散歩道か。蛇崩れ川は現在暗渠となり蛇崩川緑道となっている。写真は「木の橋」がかかっていた場所から上流を見たもの。

撮影場所:東京都世田谷区三軒茶屋

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三軒茶屋

Photo_2 当時の住宅表記では、私の家は世田谷区駒沢町字上馬引沢十一番地、いまでは繁華街の三軒茶屋である。当時は兵営と田圃とわずかの住宅があり、少し前までは駒沢村であった。

昭和東京物語1(山本七平)

写真は三軒茶屋の角家と山本家のあった場所。右側の道を少し行ったところに山本家の門があった。

撮影場所:東京都世田谷区三軒茶屋

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勝利八幡神社

Photo 私はほっとすると、急に疲れが出、勝利八幡という小さな神社の裏手に腰を下ろした。水田の上に、大きな雲が一つぽかんと浮かび、それが金色に輝いて見えた。今までに一度も見たことのない美しい雲だった。

一下級将校の見た帝国陸軍(山本七平)

昭和18年徴兵検査で第二乙種合格となった直後の思い出。現在勝利八幡の周囲は住宅で囲まれ当時の面影はない。本殿は昭和43年に再建されたもの。

撮影場所:東京都世田谷区桜上水

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2007年11月 3日 (土)

論語と渋沢栄一

Photo 他の宗教的聖典とどこが違うか?この社会を捨てて聖なるものを求めるという発送が「論語」にはない。むしろこの混濁した世俗の中で、はっきりとした一つの規範を持って生きていく行き方をしめしている。

論語と渋沢栄一(解説山本七平)より

2万4千円とやや高いですが買ってしまいました。録音状態良好で、編集もいいと思います。通勤の車のなかで楽しんでいます。toshi

余(渋沢栄一)は家業にのみ勉励していられなくなり、国事に奔走せんと欲し、それとなく父に話して見たが、父は「思いその位を出でぬ」の意見で、、

論語の読み方(山本七平)より

まだ作成中

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2007年9月26日 (水)

旧帝国ホテル

P1040410 山本書店を始めた頃、校正を家に持って帰るのが大変なので、どこか校正する場所がないかと考えたときに、思いついたのが帝国ホテルのロビーだった。ライティング・テーブルも、ペンも、インクもあるし、誰も使っていない。そこでもっぱらロビーで校正をしていた。

一出版人の人生論(山本七平)、ボイス特別増刊山本七平追悼記念号より

旧帝国ホテルは愛知県犬山市の明治村にその一部が保存されている。本来国が保存すべき文化財を一営利団体が努力して管理されているのには頭が下がるが、予算の都合なのか訪れるたびに薄汚れていくように見えるのはとても残念。toshi

撮影場所:愛知県犬山市明治村

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2007年8月15日 (水)

飛行機とアポロ15号

Hikouki この間某大臣は飛行機に乗って、若し人間が皆飛行機の上から地上を見たならば、地球の上がもつと住みよくなるであろうという感想を述べたという。何も態々飛行機に乗るに及ばない。夏の夜の空を仰いで、遠くして近く、近くして遠い星々を見る時、私達は自分の世界(エレメント)に戻り、時空を超絶した真の自由と平和の人となることが出来るであらう。

宗教と人生(塚本虎二)昭和十四年八月より

本来ならばすべての人が、わたしが体験したようなフライトを体験するのが本当でしょう。それは信仰の体験であり、この世で永遠の生命を得て天国に至る際の心の備えをつくることです。(中略)実際に月にいた時は、あまりにも忙しくて、内省する余裕などまったくありませんでした。地球に戻ってから、自分の体験をじっくりふりかえってみた時にそうした精神的な側面があまりにも強いことに思いあたったのです。月の美しさ、それから砂漠と山々の不思議なコンビネーション。月の山というのは、一万五千から二万フィートぐらいの山が聳えているかと思うと、急に低くなったりして、高低差が際だっているんですよ。

神の高みから見た地球(ジム・アーウィン、山本七平)文藝春秋1987年

現在多くの人が飛行機から地上を見ているが、地上から戦争も飢餓もなくならない。それどころか飛行機そのものが大きな災難の原因にさえなっている。とすればすべての人がたとえ月に行っても、火星に行っても同じことであろう。結局わかる人には、夏の夜の空を仰いぐだけでわかるし、わからない人にとっては何を見ても聞いてもわからないということか。toshi

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2007年8月13日 (月)

軽井沢

P1040354_2

この日、千ヶ滝遊園地を去って星野温泉に移転した。遊園地が西洋風で近代式なるに対して、温泉は純日本的で旧式である。しかして自分は前者よりも後者をえらむ者である。わずか小山一つ隔てて、遊園地は浅間山の煙に蔽われ乾燥にして火の里であるに対し、温泉は水豊かにして清泉いたる所に湧き出づる水の里である。しかして余のごとき火の性の者は、火を厭うて水を慕う。火山の中腹に水の里を得て満足この上なしである。

晩年の父内村鑑三(内村美代子)より

大正10年内村鑑三は「芸術自由教育講習会」の講師として軽井沢に招かれた。以後毎年夏になると星野温泉に逗留した。星野温泉は大正2年に星野嘉助により創業。以降北原白秋、与謝野鉄幹、与謝野晶子、島崎藤村、寺田寅彦、若山牧水ら数多くの文人が逗留した。現在は「星のや 軽井沢」となっている。

写真は内村鑑三記念堂のある石の教会。設計はフランク・ロイド・ライトの弟子であるケンドリック・ケロッグ。

撮影場所: 長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉星野

toshi

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山本七平も昭和15年夏休みに軽井沢にアルバイトに行った。

本代を稼ぐために七平は昭和十五年、二年生の夏休みに軽井沢の「不二家」という食品店のアルバイトに行った。住み込みで御用聞きと配達をするのが仕事である。当時の軽井沢は政財界の大物や外国の公大使がいまよりも多く、夏の首都という感じであった。七平は店主から開口一番、「憲兵や特高がたくさん入りこんでいるから、お得意先で見聞きしたことは絶対に口外しないように」と注意を受けたが、あまり気にはならなかった。

怒りを抑えし者(稲垣武)より

山本七平がアルバイトに行った軽井沢の「不二家」は店を閉じてしまったようです。

夏の軽井沢はどこも大混雑で戦前の軽井沢を想像することは困難です。季節はずれに行かれる事をお勧めします。toshi

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2007年7月 1日 (日)

山岳信仰(立山信仰)

Photo_19 日本の最も古い信仰形態は、山岳信仰だといわれるが、この信仰が、最後まで顕著に残ったと言われる富山へ行くと、「なるほど、こうなるはずだ」とうなずかざるを得ない。この平野も、三方が山で一方が海という「準盆地」だが、あまり広くないためか、山からの水が、どのように田をうるおして海に流れ込むかが、模型でも見るようにはっきりとみえる。日本人と組織(山本七平)

昭和49年8月山本七平は元角川書店社長の角川源義(富山市出身)の勧めもあって、富山県教育委員会主催の夏期大学で講義を行った。これはそのときの印象を書いたものと思われる。講義内容は後に「比較文化論の試み」(山本七平)として出版された。toshi

写真は富山平野の模型を北から見たもの

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2007年5月13日 (日)

The Japanese and The Jews(日本人とユダヤ人)

The_japanese 昨日ようやく手にいれ、原本と対比しながら読み始めました。1970年代のいわゆるベンダサン論争からすでに40年近くたっており、遅きに失した感がありますが、その分のんびり読ませていただきます。ルース・ベネディクトの「菊と刀」と同様に日本文化を解明した文化人類学の名著として長く読み続けられてほしいものです。toshi

イザヤ・ベンダサン(Isaiah Ben-Dasan)

すなわち、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人というわけだが、ユダヤ系日本人という概念自体がありえないから、私は、日本で生まれ育ったユダヤ人であっても日本人ではないということになる。

日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン)より

I am a Jew by birth; I would have been a Jew no matter where I was born. As it turned out I was born in Kobe, Japan, but this event did not make me Japanese either in the eyes of the people of Japan or in the legal sense.

From The Japanese and The Jews (Isaiah Ben-Dasan)

晩年山本七平は「日本人とユダヤ人」は自分が書いたと周囲に漏らした。すなわちイザヤ・ベンダサンは山本七平のペンネーム。由来は「いざや便出さん」と思われる。toshi

Ruth Benedict

The Japanese ambassador to Pakistan stated this in a public address: In 1946, Ruth Benedict, a well-known American cultural anthropologist, published a book on Japan entitled “The Chrysanthemum and The Sword”, which has been a must reading for many students of Japanese studies.
From Wikipedia

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2007年5月 7日 (月)

山本書店の閉店

Photo_16 山本七平読者連絡会のホームページによれば2007年3月31日をもって株式会社山本書店が閉店になったことです。
山本七平読者連絡会ホームページより

ー私のところはいわゆる「営業活動」は一切していないと言うことである。問屋まわりも小売店まわりも一切せず、その交際費はゼロで今まで通して来たし、今後もそれで押通すつもりである。また、マスコミを媒体とする宣伝も全くしていないと言ってよい。一般紙の広告は年に一回か二回、私はこれを「死亡広告」ならぬ「生存広告」と冗談に言っているが、簡単にいえば、「生きていますよ」といった広告で半期の出版予定を潜在購読者に知らせるだけである。

出版企画(山本七平ほか)より

確かにこの20数年間、実に多くの倒産を見、出版界とは倒産の多い所だと思っていた。--だが少なくとも過去において私が見た倒産はことごとく「自殺」であって「他殺」ではない。自殺をすればどんな企業でもつぶれるのが当然、自殺をしない限り、いかなる企業にも倒産はありえない。私は自殺をする気はないから倒産するはずはないが、これは私だけではなく、どんな企業でも同じはずだと思う。

「常識」の研究(山本七平)より

父が亡くなり、葬儀も終わり、父が経営していた山本書店に、大きな赤字の見つかった頃、私は山本書店の二階の父の書斎に篭り、山本書店の暗澹たる未来を考えながら、父の書斎の整理をしていた。

父の膝下で働いていた人は独立し、書店の業績は新刊本のないために落ち込んでおり、私は編集、校正、その他「書物の創り方」を、自らの肉体(からだ)に、叩き込み始めたばかりである。

私は父の書店の出版内容に、必ずしも興味はなかった。

私が山本書店を再興しようとしたのは”評論家”としてではなく「経営者」としての父の名誉(オーナー)のためであった。

山本書店ー父が”口説(くぜつ)”の評論活動以上に心血を注いだ出版社は、父の名誉のために言うが、苦境を乗り越えて現在(いま)も、健在である。

宗教について(山本七平)、あとがきにかえて(山本良樹)より

写真は山本書店のいわゆる「生存広告」。朝日新聞日曜日の第1面の広告費がいくらかは知らないが、確かに「生存広告」であって経済的な効果はほとんどないと想像される。

山本夏彦が「僕は広告出すの、大好きですよ。」(夏彦・七平の十八番づくし)とかつて語ったように雑誌「室内」の広告量は山本書店の数十倍?と思われる。また「家具屋や建具屋は広告なんか見ないだろう」とおっしゃる割には朝日新聞の第1面に堂々とだしておられる。読者層が「家具屋や建具屋」からデザイナー、マスコミ関係者などに広がったということか?toshi

朝日新聞、昭和46年(1971年)10月3日日曜日第1面より

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2006年3月 5日 (日)

格差と貧困

「おーい。古着屋の前に行き倒れがいるぞ」という一郎君の声とともに駆け出したとき、私はすでにその言葉を知っていた。

人垣の間からのぞくと、道路の上にカマスで蔽ったなにかがあり、そこから二本の裸足がつき出て、ハエが二、三匹とまっている。

消防団員らしい人が四人でそれを戸板に乗せた。それは動く人間ではなく固まってしまった人形のように見えた。戸板の四隅をもった消防団員らしい人が、巡査に指示されてそれをどこかに運び去った。

昭和東京ものがたり(山本七平)より

食事が終わると相手は「御恩は一生忘れません」といったが、それについで「御馳走になって、こんなことを申し上げては、と思いますが、故郷の百姓がこんな生活を見たら革命をおこすでしょうなあ」と言った。

私の育った家庭は文字通り「明治型質素堅実」でどう考えても、わが家の生活が革命を誘発するとは思えなかった。しかし、そういった生活さえ「革命」を誘発する現実が東北の農村にはあったのである。

昭和東京ものがたり(山本七平)より

何しろ当時は、国民の殆どが尋常小学校卒で、アルファベットも知らない。そして大学令に基づく大学は帝国大学だけで、当時文部省は私立大学を大学とは認めていなかった。そこで一握りの「帝大出」というエリートが社会の主導権を握り、後にこれに「陸大出」と「海大出」が加わる。私大と専門学校卒はエリートの補佐役にすぎない。そしてその他は庶民、いわば社会の殆どは非エリートで、そこには画然とした身分格差があった。

昭和東京ものがたり(山本七平)より

戦前と一括しても、これにはいろいろな時期があったわけだが、概していえば「大卒」と「小卒」との二極に分化した社会であった。両者の比率は時代により違ったとはいえ、圧倒的多数の「小卒」と少数的例外者の「大卒」とで構成される社会、いわばエリートと非エリートがはっきり存在し、その中間が存在しないという形の社会であったことは否定できない。両者は意識も違えば服装も違っていた。

ーー十九歳で兵隊にとられたとき、農民などの中には、漢字で自分の名が書けない兵隊もいたわけで、これが昭和十九年ごろの実情である。事実、昔の農家は農繁期には一家総出となるから、その期間には登校しないでも別に問題とならず、これが当然とされる地方もあったわけである。

出版企画(山本七平ほか)より

このごろ格差社会という事がよく議論になる。しかしそれを言う人は単に自分の子供時代と比べて格差が拡大していると主張しているだけのように思える。今社会で活躍している人の子供時代といえば昭和20-30年代で、そのころは確かに国際的に見ても最貧国で皆平等に貧しかったのだろう。しかしそれより前は今とは比較にならないほどの格差社会、身分社会だったはずで、それがわからなくなっているのではないか。

toshi

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2006年3月 2日 (木)

モーツァルト

 山本七平さんにはよく私のコンサートを聴いていただきました。最後においでいただいたのは七月二十日、オーチャード・ホールにおけるモーツァルトの夕べでした。そこで私は『ピアノ・コンチェルト第二十三番』を弾きましたが、終演後山本さんは、長い闘病ののちとは思えぬほど元気に目を輝かせ、生きて再びモーツァルトを演奏会で聴けるとは思わなかった、と声をはずませていらっしゃいました。

アルゼンチンまでもぐりたい(中村紘子)より

モーツァルトのピアノ・コンチェルト第二十三番が演奏されているときです。主人が、抑えていることはわかるものの、かなり激しく嗚咽しはじめたのです。お隣の席の方にも悪いし、どうしようかと思いました。

回想 夫七平との歳月(山本れい子)より

「お見舞いに何でも持ってきますが、何がよろしいでしょうか」と聞くと、山本はモオツァルトの音楽の録音カセットを所望した。

「何よりも一番聞きたいのはレクイエムなんです」と至極明るい調子で言う。

吉田は病床に鎮魂ミサ曲を持ってくるのは縁起でもないと思い、

「だけど、一応ご病人ですからね。いくら何でもレクイエムをお持ちするわけにはいきませんよ。そりゃ駄目です」

怒りを抑えし者(稲垣武)より

レクイエム:ある日灰色の服をきた見知らぬ男がモーツァルトを尋ね、レクイエムの作曲を依頼し高額な報酬を払って帰っていった。モーツァルトは死の世界からの使者と考え自らのためにレクイエムを作曲したが、完成前に世を去った。まだ作成中

toshi

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2006年2月25日 (土)

THE SPIRIT OF JAPANESE CAPITALISAM AND SELECTED ESSAYS

Baigan's view sounds rosy indeed, but the crux is his concept of "honesty." Earlier we saw that to Bagan honesty meant "honesty in one's heart-of-hearts," and that it is pssible to be honest even when one lies to others.

Man should be faithful to the heart, said Baigan. "What I mean by honesty is to follow the dictates of your compassion... Compassion as taught by revered sages is the true Heart, adn it cannot be acquired by thinking or studying. It is a natural gift under the rule of Heaven."

THE SPIRIT OF JAPANESE CAPITALISAM AND SELECTED ESSAYS (Yamamoto Shichihei)より

広尾の都立中央図書館で見つけた文献。いままでに発表されたいくつかのものを英訳したもの。特に目新しい内容はないがいろいろな作品を要約してあるのでわかりやすいと思う。外国人が日本社会を理解するための資料としては「菊と刀」とならぶ作品ではないか。

toshi

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2006年2月11日 (土)

The Bible as History

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そんなことをしているうちに、確か1958年の5月ごろである。仕事のことで神田に出て、いつものようにぶらぶら古本屋を歩き、何気なく洋書屋タトル商会に入り、別にこれといったあてもなく棚の洋書を見ているうちに、ふと一冊の本が目に入った。それがW・ケラーの「歴史としての聖書」であった。読みはじめると面白くてやめられず、おそらく一時間以上、立ち読みしていたものと思う。ふと我に帰るとすぐその本を買い、家に帰ると翻訳権取得交渉の手紙を書いた。

人生について(山本七平)より

(朝日)ジャーナルの創刊号に、三笠宮さまが書評に取り上げてくれましてね。あの時は、だいぶ冷汗を流しましたよ。宮様は、まじめな方なんでしょうね、原書と全部、照合しましてね。--私、呼ばれたんですよ。行って見ましたら、三ヶ所、抜き書きして、キチッとタイプで打ってありましてね。”この部分は、なぜこう訳したのか”って聞くわけですよ。宮様は専門家ですからね。

人生について(山本七平)より

My book The Bible as History was first published in 1955. It was translated into 24 languages and used for religioud instruction in schools, for Bible Seminars in Universities as well as by Bible Study Groups both Chrisitias and Jewish. More than ten million copies have been printed throughout the world.

The Bible as History (Werner Keller)より

この本は聖書時代の歴史に関する素人向けの入門書とのことだが、これを手にとって1時間も立ち読みし、さらに翻訳、出版を決意するといったことは私には絶対無理。写真はペーパーバック版。

toshi

Amazon.comへ:http://www.amazon.com/gp/product/0553279432/qid=1140186387/sr=2-1/ref=pd_bbs_b_2_1/104-1695957-9338353?s=books&v=glance&n=283155

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2006年2月 9日 (木)

新坂

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東京都千代田区

五月も半ばになると、どうにか杖をつき、山本書店まで歩いていけるようになりました。普通なら十七分くらいで歩ける距離も、ゆっくりゆっくり、途中、喫茶店で一休みしながらの道行きでした。「行ってくるよ」一言いって、そして、山本書店にほんの一時間か二時間いるわけです。

七平ガンとかく闘えり(山本れい子、山本良樹)より

喫茶店でやすまなくてもすむようになったのは、六月の末でしたでしょうか。ある日のこと、雨がぱらついてきたのにタクシーがつかまらず、結局あの市谷の坂道を歩いてきたといって、とても喜んでおりました。帰宅して、もちろんすぐに休みましたけれどもね。

回想 夫七平との歳月(山本れい子)より

市ヶ谷橋から日本テレビ方向への坂は明治末につくられたもので新坂と呼ばれる。結構な坂で真夏に登っていくと結構つらい。まして術後の身であればなおさらであろう。

toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.41.14.821&el=139.44.20.445&la=1&sc=1&skey=%BB%D4%A5%F6%C3%AB%B1%D8&pref=%C5%EC%B5%FE&CE.x=260&CE.y=203

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渋沢資料館

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東京都北区飛鳥山公園内

日本における近代の創造は、徳川時代と明治時代の連続・非連続を統合的に把握してはじめて理解できる、-ではどのような方法を用いればその「統合的把握」が可能なのであろうか。さまざまな方法が考えられるが、私はここで、前記の「連続・非連続」を一身に具現していると思われる一人物を選び、その人の思想と行動を通して把握しようと試みた。そしてその人が渋沢栄一である。

近代の創造(山本七平)より

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.44.49.476&el=139.44.32.549&la=1&sc=2&skey=%C8%F4%C4%BB%BB%B3%B8%F8%B1%E0&CE.x=256&CE.y=361

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2006年2月 7日 (火)

多摩川

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この玉川に行ったのがいつごろかはっきりしないが、まだ二子玉川に橋がなく、玉川電車の終点は玉川で、支線のように単線が砧の方へ延びていたころであった。当時は、三軒茶屋はかろうじて郊外といえたが、玉川へくると完全な田舎。両岸の丘陵と堤防の間は青々とした畠で、所々に果樹園があり、なしや桃が植わっていた。ただ普通の田舎と違う点は堤防にそって、鮎料理を出す料亭が並んでいたことであろう。

今でも現地に行けばわかると思うが、砧に近い河原で私は思わず足を止めた。河原に一群の小屋が建っていた。それは古い戸板や錆びたトタン板やアンペラなどで造られた文字通りの掘っ立て小屋である。小屋からは夕食の準備らしい煙がもれている。裸の子供がこちらを見ている。電灯があるらしい様子はなかった。・・・・・そのとき父がぽつりと、「故郷にはもっと貧しい人がいる、もっとひどい家がある」と独り言のように言った。

昭和東京物語1(山本七平)より

等々力渓谷公園を抜けて少し行ったところで多摩川に出た。昔あった掘っ立て小屋の一群も、土手を歩く芸者も、鮎を出す料理屋もすべて消え去った。遠くには二子玉川の高島屋と第3京浜の橋脚が、川の両側にはこぎれいなマンションが立ち並ぶ。外面的には確かに進歩、発展したのだろうが、、、、、。

toshi

進歩はこの世の特性であってその畢(おわ)るところは完全であるという。実(まこと)にそうであるか、これ大なる問題である。世はあることにおいては常に進歩しつつある、その事は確実(たしか)である。しかしまたある他の事においては常に退歩しつつある。

勝利の生涯(山本七平編)より

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.35.46.239&el=139.38.44.816&la=1&fi=1&skey=%c5%f9%a1%b9%ce%cf%b7%cc%c3%ab&sc=2

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多摩川鉄橋

DSC00574多摩川鉄橋から丸子橋を望む

東急東横線車内

いつか忘れたが、丸子多摩川の鉄橋を走る電車の窓から下を見ると、川一面に洗剤の泡らしいものが湧き立っており、その余りのすさまじさに思わず顔をそむけた。

昭和東京物語1(山本七平)より

現在の多摩川には洗剤の泡はない。鮎も1970年台後半から戻ってきたとのことである。toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.34.53.152&el=139.40.16.366&la=1&sc=2&skey=%B4%DD%BB%D2%B6%B6&CE.x=205&CE.y=5

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2006年2月 6日 (月)

山本書店

P1000808 山本書店に続く細い路地

東京都新宿区

市ヶ谷路地裏の終戦時に建てられたボロ家、友人が「終戦記念物」と呼んだ陋屋で、隠居仕事のように気ままに一人で本を造ったり、本を読んだりしていた十年は結構楽しかったし、それが一生続いても何の不満もなかった。

「常識」の落とし穴(山本七平)より

それは多分に性格的なものがあるかもしれないが、市谷の陋屋に蟠踞して、黙って仕事をしているのが、私に一番ふさわしいと思う。いままでずっとそうしてきたし、これからもおそらく、そのまま続いていくことになる。ただ、ぼろ屋に私が一番似つかわしいというのは、まことに困ったものである。

人生について(山本七平)より

初めて山本書店にお邪魔したときは、事前に地図で何度も確認したにもかかわらず相当迷ってしまった。まさしく隠者の棲む家である。

toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.41.15.229&el=139.44.7.866&la=1&sc=2&skey=%BB%D4%A5%F6%C3%AB&CE.x=247&CE.y=271

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山本七平墓

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東京都小平市小平霊園

小平霊園のずっと奥にそれはあった。墓石は小さくまったく目立たない。墓には「吾等之高櫓也」とある。toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.44.26.297&el=139.29.15.330&la=1&sc=3&skey=%BE%AE%CA%BF%CE%EE%B1%E0&CE.x=363&CE.y=245

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2006年1月31日 (火)

湯河原温泉

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神奈川県足柄下郡湯河原町

静かなる細き声(山本七平)には湯河原への二泊三日の新婚旅行の写真が掲載されている。

 万葉集にも詠まれた湯河原は明治末に鉄道が引かれてから発展し、国木田独歩、夏目漱石、芥川龍之介、島崎藤村、小林秀雄、丹羽文雄、大岡昇平ら多くの作家が逗留した。写真は湯河原温泉を流れる藤木川。toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.8.47.421&el=139.4.33.264&la=1&sc=3&skey=%C5%F2%B2%CF%B8%B6%B2%B9%C0%F4&pref=%BF%C0%C6%E0%C0%EE&CE.x=341&CE.y=449

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2006年1月15日 (日)

ブース大将

P1010601

東京都北区渋沢資料館で

なぜそんな写真が家にあったのかは知らないが、その写真には真ん中に大山元帥がおり、隣に外国の軍人らしい人がいて、その左右に、当時の上流階級らしい貴顕紳士が並んでいた。父に説明を求めると、その軍人らしい人は救世軍のブース大将、明治天皇に謁見した後の歓迎会か何かの記念写真で、彼はその後、日本国中をまわり、山室軍平の通訳で講演をつづけ、そのいずれも大盛況で、爆発的な大人気であったという。

静かなる細き声(山本七平)より

The Salvation Army is an integral part of the Christian Church, although distinctive in government and practice. The Army's doctrine follows the mainstream of Christian belief and its articles of faith emphasise God's saving purposes. Its objects are 'the advancement of the Christian religion ...of education, the relief of poverty, and other charitable objects beneficial to society or the community of mankind as a whole. ' The movement, founded in 1865 by William Booth, has spread from London, England, to many parts of the world.

The Salvation Army International Home Pageより

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.44.49.476&el=139.44.32.549&la=1&sc=2&skey=%C8%F4%C4%BB%BB%B3%B8%F8%B1%E0&CE.x=256&CE.y=361

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2006年1月11日 (水)

真珠湾

File0025米国ハワイ州

でも、日米戦争が起こるなんて夢にも思わなかったですね。真珠湾を叩くなんて、当時の普通の学生は、全然予想もしていなかった。だから開戦の日も二階で寝てて、下から親父が「おい、戦争だぞ」っていうんで、「どことどこの戦争ですか」って聞いた憶えがある。それが大体普通ですよ。

さらに幻想を語る(岸田秀、平川祐弘、山本七平)より

朝日・毎日を選んだのは外ではない。それはわが家でとっていた新聞で四十年前のその日に、全く同じ文面をこの私も読んだからである。

「東亜開放戦開始(毎日新聞・昭和16・12・9)」

「一億総進軍の日は来た。待ちに待った日は来た。米英両国に対する宣戦の詔書を謹読するもの、誰か血沸き肉踊るの感を抱かないものがあろう。既に事は決した。吾等全国民は、東条首相の謹話にある通り『必勝の信念』を以って最後の勝利を確得するまで戦い抜こう。--」

日本人にとって太平洋戦争とは何であったか(山本七平)より

ここを訪れる際は日本人として少し緊張する。見学者には韓国人や中国人といったアジア人も多いのでほっとした。しかしかれらにまぎれてこそこそと(?)ここを見学するのは卑怯ではないか?日本人として堂々と行動するべきでは?などいろいろな思いが浮かんだ。写真は東京湾で日本が降伏文書に調印した際の戦艦ミズーリー。手前には真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの一部が見える。toshi

撮影場所:http://maps.yahoo.com/maps_result?addr=&csz=hawaii&country=us&new=1&name=&qty=

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2006年1月10日 (火)

二宮海岸

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神奈川県中郡二宮町

父は、北海道時代に山中牧師と知り合ったらしいが、どういう関係だったのか私は知らない。教会員であったか否かも定かでない。ただ二人は気が合ったらしく、その後山中牧師が二宮に転任された後も、いわゆる家族ぐるみの交際が続いた。夏休みになると一家をあげて二宮の教会に”移住”し、一ヵ月近く、山中牧師一家と起居をともにした。

静かなる細き声(山本七平)より

JR二宮駅から1号線を渡り二宮教会の横をすぎると階段があってすぐ袖ヶ浦海岸に出る。西相バイパスの下は結構急斜面のがけになっておりそれをおりると砂利が多い浜にでる。浜の1/3か1/4はバイパスの下になっているうえに車の音でやかましい。toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.17.46.599&el=139.15.30.699&la=1&sc=3&CE.x=386&CE.y=430

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2006年1月 8日 (日)

青山学院大学

東京都渋谷区

P1010610 運動場に全生徒を集めて、高い壇上からシンガポール陥落の意義について一席ぶっていた配属将校高橋達吉陸軍大佐が、何かに憤慨して激怒し、満面に朱をそそいで、「こんな学校は焼き払ってしまえ」と怒鳴った。

人生について(山本七平)より

当時、軍部に睨まれている学校と、軍部に好意を持たれている学校とがあった。私がいたのはアメリカのメソジスト系ミッション・スクールだから、睨まれる側のトップで、この中学部からは、杉山元帥の甥というただ一人の例外の除いて、陸軍士官学校に入学したものはセロだといわれていた。いわば「門前払い」であり、はじめから行くものはいなかった。

昭和東京ものがたり(山本七平)より

2004年度前期青山学院大学公開講座に参加した。約20年ぶりに大学の授業というものを受け懐かしい感じがした。なによりもびっくりしたのは、内容が、パスカル、ジョン・ウェスレー、カール・バルトなどといった硬いものであったにもかかわらず毎回ぎっしりと席が埋まったことである。

toshi

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.39.29.213&el=139.42.47.073&la=1&sc=1&skey=%C0%C4%BB%B3%B3%D8%B1%A1%C2%E7%B3%D8&CE.x=101&CE.y=197

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2006年1月 7日 (土)

長島

P1010620 神奈川県横須賀市

海に入る。崖の下から岩礁まではすぐで、いま見るとその幅はちょっとした川幅ぐらいにみえるかもしれない。しかし潮の流れは相当にきつく、泳ぎを覚えたばかりの私には、相当な距離に思えた。後で知ったのだが、この岩礁を土地の人は長島と言っていたように思う。

昭和東京ものがたり1(山本七平)より

住吉神社の裏の岬と「長島」はそのまま埋立地となりマンションやフェリー乗り場などに利用されている。すぐ横には東電の発電所があり昭和初年の面影はまったくない。遠くの房総半島の姿だけが当時のままと思われる。

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.12.55.617&el=139.43.1.580&la=1&sc=3&skey=%B5%D7%CE%A4%C9%CD&CE.x=309&CE.y=278

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2006年1月 6日 (金)

住吉神社

P1010614

神奈川県横須賀市久里浜

現在は埋め立てられてマンションなどが建っているが、昭和初期には山本家が借りた離れのすぐ先が砂浜だった。右手には低い丘があって涼しげな木立に囲まれた住吉神社があり、海中に突き出した防波堤の先端から磯が長く沖まで延びていた。

怒りを押さえし者(稲垣武)より

撮影場所:http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.12.55.667&el=139.43.5.054&la=1&sc=3&skey=%B2%A3%BF%DC%B2%EC%BB%D4%B5%D7%CE%A4%C9%CD&CE.x=209&CE.y=244

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2006年1月 1日 (日)

山本七平

大正10年東京生まれ。昭和17年青山学院を卒業。昭和33年山本書店を創立。昭和45年「日本人とユダヤ人」を出版。昭和56年菊池寛賞を受賞。平成3年膵臓癌のため死去。

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