親鸞 (Shinran)
日本に来た主流はプロテスタンティズムであり、その日本側の受容者で指導者である人びと、たとえば内村鑑三などに強く見られるのが、真宗的ともいえる受けとり方である。鑑三が感動し強調したのはパウロの、救済は「行いによらず、ただ信仰のみによる」という信仰義認の主張であり、またパウロが自分を「罪人の頭」と規定したことであった。
おそらくそこには、自らを「虚仮不実の身」「こころは蛇蝎のごとく」と自己規定した「愚禿親鸞」の投影と、彼の宗教思想の掘起こし共鳴現象があったからであろう。
「自然(じねん)」の思想にみる他力の人間学(山本七平)より
ここに契約と因果の大きな違いがある。仏教において、ぶどう園の譬話と対比されるのは、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)であろう。親鸞はこのことばで、因果の法則性に絶望した人間の呻きを語り、それ故に因果の法則までも超越した阿弥陀仏の救済の絶対性を主張しているのである。したがって、阿弥陀仏には恣意性がある。その点で、親鸞とキリスト教は考えがまるで違っている。
「「色即是空」の研究」(山本七平、増原良彦)より
これがすなわち浄土教的な考え方、その中にはいまのべましたように非常に強く日本の風土、すなわち神道と似たものが入ってきまして、”自然(じねん)”という言葉が出てくるんです。これは複雑な意味を持つ日本語なんですが、自然というのは阿弥陀仏であるという考え方が浄土教の基本だと、仏教学の方が言われます。
これがすなわち、グノーシス現象で、極端な言い方をしますと、伝統的な日本的考えの仏教的把握、乃至は日本思想の仏教的表現といえるわけです。
比較文化論の試み(山本七平)より
Words of Shinran
Know that the Primal Vow of Amida makes no distinction between people young and old, good and evil; only shinjin is essential. For it is the Vow to save the person whose karmic evil is deep and grave and whose blind passions abound. Thus, for those who entrust themselves to the Primal Vow no good acts are required, because no good surpasses the nembutsu. Nor need they despair of the evil they commit, for no evil can obstruct the working of Amida's Primal Vow.
From SHINSHU HONGWANJI-HA OFFICIAL SITE
中世の宣教師たちは世界を半周した末にたどりついた日本でキリスト教に最も似た宗教、同時に最も布教の妨げとなる宗教、浄土真宗を発見したという。キリスト教、特にプロテスタントと浄土真宗の表面上の類似性は多いものの、根本では大きくことなる。内村鑑三が多くの宣教師と衝突したというのもその受け取り方が日本的、すなわち異端とされたからであろう。toshi
写真は富山市にある「親鸞上人腰掛けの松」。元久元年(1204)親鸞が越後に流された際この松の下で休憩したと言い伝えられている。現在北陸は真宗王国とも言われているが、親鸞上人が流された時代には浄土真宗はほとんど広まっていなかったとされる。北陸に浄土真宗が広まるのは蓮如が越前吉崎(吉崎御坊)に移ってからのこと。toshi
撮影場所:富山県富山市浜黒崎
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